てつこはじと目でなにを見る?

おかしな家で育ったおかしな娘が書く読み物

人の死に直面してもなお、この世から消えたいと思うのかという葛藤。

先日、知人のお葬式に参列しました。

生前は頻繁にお会いするような間柄ではなかったものの、

ご縁もありましたし、お声をかけていただいたこともあり参列しました。

棺に収められたその人のお姿を見たときは

やはり胸にぐっと来るものがありました。

美しくお化粧をされたその人の肌はつやつやしており、

本当に眠っているように見えました。

それまで気丈に振舞っていたご家族の方が、

火葬されてお骨だけになった姿を見たときに

泣き崩れていたのがとても印象的でした。

 

てつこは祖父のお葬式以来、まだ2度目の経験です。

お作法も知らず、あの雰囲気に色々とショックも受けました。

もう起き上がることのない、

魂がすでにない、

あの棺に入っているお姿を見ると涙が出るとともに、

不思議な感じを受けました。

「あの世からこのお葬式の様子を見ているのかな。」

てつこは結構本気でそう思いました。

なんか、向こう側にその人がいるような、不思議な感じ。

 

まだ生きていたかっただろう。

お葬式に集まった人々から、故人のエピソードを聞きながら

そう思いました。そしてまた涙が出ました。

 

お経が読み上げられる中、てつこは自分のことを考えました。

誰が看取ってくれるのだろう。

誰が葬式をあげてくれるのだろう。

そして誰が葬式に来るのだろう。

自分で自分の葬式を手配できればいいのに。予約みたいな。

 

てつこは最近も、この瞬間も、死んでしまいたいと「ふわっ」と思う。

地球に小惑星が衝突しても悔いはない、気がする。

気がする、というのは情けない話だが、

「なんかもう、この世に未練はない」と思う一方、

「もっと楽しいことがあるのではないか」という期待もある。

だから自分の気持ちなのによくわからない。

 

今回、亡くなった方のお姿を目の前にし、

そんな気持ちを抱いてお経を聞く自分が

情けないというか、悲しいというか、寂しいというか、

なんとも言えない気持ちになりました。

 

生きたい人がいたんだから死ぬなんて考えるんじゃない、

というのは正論かもしれませんが

私の口からはとてもそんなことは言えない。

かと言って、この世が嫌いで嫌いでしょうがなくて

毎日死にたいとつぶやきながら生きていくのも、

もっと自分でなんとかできるのではないか、と思うこともある。

「自分の死」に関する気持ちはあまりに複雑で整理しきれない。

 

故人の場合と自分の場合が重なってしまい、

ぼんやりと色々なことを考えてしまいます。

数日経った今も、棺をのぞいたときのきれいなお顔が忘れられない。

 

〇〇さん、どうか安らかにお眠りください。