てつこはじと目でなにを見る?

おかしな家で育ったおかしな娘が書く読み物

何かを食べておいしいと感じること、それはここ数年で得た感覚。(2)

学生になり、てつ父と住むことになった。

必然的にダブル夕食文化は無くなった。

好きなものを好きなように食べ、自分のタイミングで食事できるようになった。

最初のうちは人気ラーメン店に行ってみたり

学食で定食を食べてみたりした。

 

だが、すぐに飽きてしまった。

お金が無いのもあったが、

誰かとご飯を食べたり知らない人と隣同士になったりすることが嫌になった。

何より『何を食べたいかわからない』と悩むようになり

食事が面倒になったのだ。

結局昼食は毎日100円のカップ麺をすするようになった。

『カップ麺で十分。何を食べても美味しくもないし不味くもないから。』

という考え方に落ち着いた。

 

体重はみるみる落ちた。

高校時代の友人や先生にたまに会うと、かなりビビられた。

「・・・どうした?何かあったの?」

もはや、ダイエットしたの?(^^)と聞かれるパターンを通り越して心配されてしまった。

みすぼらしい感じになって、人に会うのも気が引けるようになっていった。

食事自体が億劫なので、会う機会も減っていった。

 

社会人になってもしばらくはこんな感じが続いた。

そして、統合失調症

 

それからは運もあり努力もあり協力もあり、回復した。

信頼できる人との出会い

てつ母との決別

てつ父との決別

休職と復職、それに伴うお医者さんや産業医の方々のサポート

精神疾患毒親に関する知識取得

 

これらを少しずつ積み重ね、「食事への関心」も戻ってきた。

 

今思えば、子どもの頃も学生の頃も、親や他人の目が気になって

「おいしい」とか「あれ食べたい」とかあんまり思っていなかった。

特に子供の頃は「これおいしいね!」と言えば親が笑ってくれるから、

自分がおいしいと感じるかよりも親の顔色を優先させていた。

てつばあの食事でも(勿論おいしかったはずだが)場の雰囲気を気にしていた。

 

ようやく、てつこ自身に「お腹すいた。あれを食べたい。」という思考回路ができた。

 

もう誰かに何を食べたいか聞かなくてよい

もう誰かに何を食べるか合わせなくてよい

もう誰かがおいしいかどうか思っているかを気にしなくてよい

 

てつこの意志でてつこが決めてよい。

おいしいとか不味いとか、もっと食べたいとかもういらないとか、

自由に感じて表現してよい。

 

たったそれだけのことが、こんなにも時間がかかり

こんなにも労力がいるとは。

大変だったが、その分「食事をしておいしい・楽しい」と感じることが

いかに平和で大切なことなのか、その重みをてつこは知れた。

そんなの普通で大したことないと考える浅はかな奴らがいたら、指さして笑ってやるよ。