てつこはじと目でなにを見る?

おかしな家で育ったおかしな娘が書く読み物

自分の身体を大事にすることってどんなことだろう?と考えてみる。

自分の夜ご飯を作っていて親指をざっくり切った。

いてててて、と絆創膏を貼る。

出血が止まるまでじっとする。

なかなか止まらない自分の指を見ながら、ふと思う。

自分で自分を傷付けてしまった時期を。

 

小さい頃から学生時代まで、その癖はあった。

その癖が発動するときは、決まって自分の存在意義を確かめたいときだった。

流れるものを見ながら「生きている」ことを確かめた。

明日も生きていくしかない、と言い聞かせて眠りについた。

我ながら、あの日々は異常だと思う。

 

痛い、と思う時は通常嬉しくない。

嫌だし不快だし悲しいし辛いし。

だから普通はそのことを避ける。

敢えてそれを望んでやるのは、やっぱり精神的に異常なときだ。

 

傷付ける、ということは病んでるときの出来事だけではない。

仕事で働き過ぎたり、家庭で無理をし過ぎたり。

具体的には、風邪をひいているのに出社したり

具合が悪いのに旦那が子どもの面倒みてくれないから一日付き添ったり。

そんな普段のことでも、やっぱり自分は傷付くのだ。

自分自身のことを大切にできないときは、結局傷付く。

そんなことの繰り返し。

 

自分で自分を傷付ける、

まるでそれはリストカットの表現だけれども、それだけではない。

日常にもそれは潜んでいる。

病みから脱した今、痛感する。

いつでもどこでもどんなときでも、危険は身近にあるのだと。

 

自分を犠牲にして相手を大切にする仕組みの中で、

どうやって自分を守ればいいのだろうと思い悩む。

どっちも大切にするには頭を働かせなきゃなあと思う。

常にそれを実行するのは、てつこにはなかなか難しい。

どうしてもどっちかしか視野に入らない。

でもそれを上手くやらないと自分がボロボロになってしまう。

かと言って、相手につっけんどんに対応すれば相手が嫌な思いをする。

どちらも嫌だなぁと考え過ぎてしまうのだ。

 

こう考えてみると

てつこがてつこのことを守りたいと思うためには、

まずてつこがてつこのことを好きでいないといけない。

好きでないと、大切にしたいという考えに及ばない。

今まではそうだった。

自分のことなんてどうでもいいから、身体のことなんてどうでもよかった。

それが少しずつ、もっと大事にしなければと変わった。

自分に自信が持てるようになってきたのも同時期だ。

それは、自分のことが好きっていう現れなのかなぁと思う。

 

でもやっぱり、今のてつこには

「自分が好き」

なんて言えない。

今日は遊園地に遊びに行ったけれども、

嬉しそうに写真を撮る自分も、楽しそうにする自分も、

なんだか自分じゃないみたいで現実感がない。

もっと言えば恥ずかしい。肯定的に捉えられない。

今こうやって酒に酔っぱらってネガティブに発言している方がまだ自分らしい。

ああ、まだまだ後ろ向きだなぁと反省しつつ

眠りにつくのであった。