「死にたい」と口走る思考と「消えたい」と願う心
座間市で起きた9遺体事件のニュースの中で、犯人が「本当に死にたい人はいなかった」と供述していると知り、てつこはもやもやとした気分になっていた。
「本当に死にたい」かぁ…
てつこは自分のことを振り返る。
そんな時期があり、そして今もそんなことを思うときがあるなぁ、と。
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当時はどんな気持ちだっただろう。
思い出してみるとてつこの場合、己の言葉と心に少しズレがあった。
「死にたい」と思い、実際に行動しようとしたこともあった。
インターネットの掲示板に書き込んだこともあった。
自殺関連の本やネット情報を読み漁ったこともあった。
でも本当は「死にたい」のではなく「消えたい」という気持ちが強かった。
両親が仲が悪くて家から消えたい。
学校でみじめな思いをするから消えたい。
将来が不安だからこのまま消えたい。
そんな感じが強かった。
「消えたい」から「死にたい」のであった
他に消える方法はあるのだろうか?
実社会ではお金があればどこかに逃げられるし、両親の理解があれば学校を休めるし、そのまま引きこもってしまえば社会から消えられる。
だが、当時のてつこにはどれも難しかった。
お金は親にも当時のてつこにも無いし、学校に逃げないと家には毒親がいるし、引きこもったら永遠に毒親と一緒にいなければならない。
どうやったら消えられるのか?
どうやったら無かったことにできるのか?
そんなことを考えていた。
てつこは心の底から「死にたい」と思っていたわけではなかった。
方法としてそれを選ぼうか悩んでいた。
実際には死の恐怖を超えることができなかったけれども。
今は生きていて良かった・消えなくてよかった、と本当に思っている。
だが実は現在でも、電車にふと引き寄せられそうな感覚や、
このまま死んでも構わないかも、なんて思う一瞬が時々ある。
嫌なことや辛いこと、ちょっとしたダメージを受けた時に「消えたい」と思うのだ。
それはただの逃げなのかもしれない。
逃げるために「死」を選んでうまく実行できてしまったら…
そう考えゾッとして、消えたい感覚は引っ込んでくれる。
先の事件の犯人が放った「本当に死にたい人はいなかった」という言葉にずっともやもやしていたのは、
「死にたい」と思う人なんてそんなにいなくて、
「消えたい」と思う人はたくさんいるんじゃないか、という実感からだろう。
この2つは「≠」であって、普通の人には些細な違いかもしれない。(犯人は自ら命を絶つ気なんて全然なかったという。そんな奴にわかるはずもないだろう)
だがそのままにすると、この犯人に対しての怒りや、社会が持つ問題点を捉えるときの溝になるんじゃないかと心配になるくらい、大きな違いだと思う。
もしてつこの身近に「死にたい」と言う人がいたのなら、
それはこの世から「消えたい」ということなのかな?と一緒に考えてみる。
消えたいのであれば、他に方法はあると思う。
そして、いずれの希望であっても、
生きていて良かったと思える小さな瞬間を積み重ねて欲しいと提案するだろう。
今のてつこが不安感を抱えながらも生きていけるのは、ちょっとした喜びや幸せがあるからこそ。嫌なこともたくさんあるが、どうにかこうにか踏みとどまれている。
自ら命を絶つなんて寂しいこと言わないでおくれよと、
もっと多くの人が声を出してほしい。